高円寺の歴史

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高円寺
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地名の由来

高円寺は江戸時代初期までは小沢村と呼ばれていた。

3代将軍徳川家光が鷹狩でこの地を訪れた際、村内の「宿鳳山高円寺」を気に入り、たびたび訪れたことからいつしか高円寺が有名になり、この地も「高円寺村」に改名された。これが現在の地名「高円寺」のルーツである。

宿鳳山高円寺

「宿鳳山高円寺」は戦国時代、弘治元年(1555年)に開山した曹洞宗のお寺。山門や本堂の屋根にある〝葵の紋〟からはその後江戸時代の徳川家とのゆかりを感じることができます。

現在の高円寺はJR高円寺駅を中心に〝高円寺南〟と〝高円寺北〟にわかれている。これは戦後の町名変更に基づくもので、それ以前の高円寺は、「宿鳳山高円寺」を中心に高円寺(旧高円寺村)と呼ばれていた。

高円寺氷川神社

高円寺天祖神社とともに高円寺の鎮守「氷川神社」 

創建は諸説あり、社伝または口伝によると鎌倉時代(12世紀)もしくは天保年間(1531年~1544年)とされる。また、高円寺の地名の由来となった「宿鳳山高円寺」は氷川神社の別当寺であったとの言い伝えもある。火災により資料が焼失し、詳細は明らかではない。旧社格は村社。

高円寺氷川神社

また、氷川神社には境内に日本で唯一の「気象神社」がある。

元は馬橋4丁目(現:高円寺北4丁目)にあった旧帝国陸軍気象部内に造営されていたものを戦後氷川神社に遷座した。

今では好天を願う人々や気象予報士を目指す受験生の合格祈願の場となっている。

気象神社 | 高円寺氷川神社
日本気象協会が毎年実施しているその年の気象を漢字一文字で表現する企画が今年も気象神社で行われました。 今年は台風に伴う豪雨に見舞われることも多く、当神社でも大きな被害が出ました。 災害の被害に遭われ、今も被災生活を強いられている方々にお見舞いを申し上げます。 来年は穏やかな天気が続くように祈念したいと思います。

高円寺天祖神社

氷川神社とともに高円寺の鎮守「高円寺天祖神社」

創建は社伝によると寛治元年(1087年)。別当寺は真言宗豊山派「日王山長仙寺」(高円寺南3-58-4)であったと伝わる。旧社格は村社。

明治以降の高円寺

街道から鉄道へ

江戸時代、甲州裏街道として「青梅街道(成木街道)」は江戸と甲府を結ぶルートとして整備され、高円寺村はこの街道に隣接していた。また隣の中野には宿場がおかれていた。

明治に入ると、明治2年(1869年)青梅街道(新宿-田無間)に乗合馬車が開通し、大正10年(1921年)には青梅街道(新宿-荻窪間)に路面電車(西武軌道)が開通する。この路面電車は後に都電杉並線となり、青梅街道の地下に営団地下鉄荻窪線(現:地下鉄丸ノ内線)が開通するのに伴い昭和38年(1963年)廃止となった。

一方、明治になるとこれまでの舟運の代わりに鉄道の構想が浮上し、甲州街道あるいは青梅街道のルートを予定したが、地元住民の反対運動により甲武鉄道(現:JR中央線)は現在の路線へ変更となった。

明治22年(1889年)4月、甲武鉄道(現:JR中央線)が新宿-立川間で開通し中野駅が開業。同24年には荻窪駅が開業する。また同37年には飯田町(現飯田橋駅付近)-中野間で早くも電車運転が開始となる。

鉄道の開通とともに次第に街の中心は〝街道〟から〝鉄道〟へ移っていったものと考えられる。

高円寺駅の開業は中野駅、荻窪駅開業から遅れること、大正11年(1922年)7月であった。

高円寺駅は昭和20年(1945年)東京大空襲で焼失するも後に全面改築し、昭和41年(1966年)には高架複々線化工事が完了する。

戦後の高円寺

〝ばか踊り〟から〝阿波おどり〟

昭和32年(1957年)パル商店街青年部が「第1回高円寺ばか踊り」を開催したのが、現在の「東京・高円寺阿波おどり」の起源である。

〝音楽の街〟から〝古着の街〟

昭和47年(1972年)吉田拓郎がリリースしたアルバム『元気です』のB面に「高円寺」という曲が含まれると、1970年代以降、高円寺はたびたび音楽シーンに登場するようになり、フォーク・ロックの聖地として若者が集う街となっていった。

2000年代に入ると高円寺駅の南側を中心に古着屋が急速に増える。今ではピーク時の半数程度まで落ち着いてきたが、それでもなお古着のまちとしての知名度・認知度は特筆すべきものがある。

これからの高円寺~令和のその先へ~

〝若者の街〟高円寺

戦後、高円寺は地元商店街を中心とした地域の人々の尽力により〝阿波おどり〟そして〝音楽の街から古着の街〟へと変遷を遂げてきた。このいずれにも共通するのは地元の若い力が地域を盛り上げ、街の年長者がそれを応援し〝若者の街〟として魅力ある「高円寺」を発信し続けてきたことにある。近年の「高円寺4大まつり」もその集大成のひとつだ。

年長者が若者を支え、若者が新しいカルチャーを発信し続ける「高円寺」の風土があるかぎり、これからも「高円寺」は日本・アジアへその〝個性〟を発信し続けていく事であろう。

街は今もJR高円寺駅を中心に個性的な進化を続けている。

参照:1高円寺観光案内 2Wikipedia 3御朱印神社メモ 4東洋経済ONLINE 5三井住友トラスト不動産

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